自己紹介

<大田ゆうすけのリハビリメニュー>

● 芦田川河口堰の開放(漁業振興)

代替水源の確保策について上下水道局が主体的に取り組む

下水処理場の栄養塩管理運転の取り組み(貧栄養化対策)

● 農業振興

ワイナリーを中心とした地域活性化、地方創生のモデルケースに耕作放棄地を活用して小麦を植え、パンやピザを焼く、産直市の開催

● スポーツ振興

ふくやまマラソンのコースを鞆へ変更(鞆未来トンネル完成後)

ローズアリーナに全国規模の水泳大会を誘致

パラクライミング日本選手権の開催

スポーツ協会の体制強化、施設整備(弓道遠的場の整備など)

● 文化振興

世界バラ会議を機に41連隊跡地である緑町公園を国際平和の拠点とする

鞆町における滞在型観光の導入(着物日和など)

● 産業振興

物産協会の機能強化

渋滞対策として福山道路のコースを内港沿いに変更

高校生の企業探求活動を推進し、人材の確保を図る

● 子供の教育

閉校した内海中学校や山野中学校を活用して自然体験教育の拠点に

各小中学校にて農業教育の取り組みを拡大、読書教育のさらなる推進

こども未来館に天体望遠鏡を設置

● 医療・福祉対策

介護保険事業所のさらなるレベルアップ、適切なケアマネジメント

市民病院と医療センターの連携強化、看護学生の奨学金の充実

● 自治体改革

予算・決算の透明性を高める(わかりやすい説明資料の作成)

財務会計システムの更新、特別会計の複式簿記化(駐車場会計など)

監査事務局のチェック能力向上

● 議会改革

委員会のインターネットネット中継

本会議・委員会の録画をYouTubeで配信

本会議場にデジタルサイネージを設置し、資料等を表示できる

市議会の情報をSNSで発信

公聴会の開催、参考人の委員会への招致

議会提案条例の制定

政務活動費による議員視察の活性化(海外視察も含めて)

● 災害対策

小中学校の体育館にLPガス式の空調を設置

避難所に非常用電源の整備、各学区にて避難所運営の体験会を実施

有事における地下シェルターの整備

年表

昭和43年3月23日 大田浩右・大田祥子の次男として岡山市で生まれ、昭和47年に家族で福山市に転居

昭和48年 川口幼稚園入園

昭和49年 川口小学校入学

昭和50年 多治米小学校へ転校 学校から帰ると、毎日のように網とバケツを手にして芦田川へ遊びに行く。

昭和52年 芦田川河口堰運用開始、私は芦田川で遊んだ経験のある最後の子供であり、わずか3年間とはいえ、この思い出は何物にも換えがたく、自分の子供や孫の世代が体験できないことは残念至極に思う。

昭和55年 広大付属福山中・高等学校入学(34回生)
水泳部に入り、福山地区では常勝、県下でも有数の強い水泳部に成長する。高1の時、自転車による四国88ヶ所巡りの旅に出てオートバイに目覚め、寝ても覚めてもオートバイの事を考えるようになった。新聞配達により買ったホンダCB50JXが当時の愛車

昭和61年 大阪産業大学短期大学部・自動車工業科入学
2級自動車整備士免許を取得し、モトチャンプ杯耐久レースにも出場、19歳の時の北海道ツーリングは特に思い出深い。

昭和63年 愛媛十全医療学院・作業療法科入学
やはり病院に帰ろうと、リハビリテーション専門職を目指した。作業療法士は当時貴重な職種で別名「金の卵」、学院祭実行委員長を経験した。

平成3年 広島会計学院入学・大田記念病院就職
当初、作業療法士として老人デイケアを担当した。その後、広島会計学院で学んだ簿記の知識を活かして経理担当者となる。大田記念病院在籍中は「社会性のある病院」を目指し、ローズパレード、二上り踊り、芦田川一斉清掃、福山マラソンなど社外イベントに積極的に参加した。

平成7年 シーカヤックで瀬戸内海を横断(往復)した。

平成8年 異業種交流会「SAY YOU」を立ち上げ、幅広い人脈作りに取り組む。新谷暁生氏主宰のノーザンアドベンチャーカヤックスによる知床エクスペディションに参加し、シーカヤックで知床半島を回航した。

平成9年 初めて「トライアスロンさぎしま」を完走、11月に結婚する。

平成11年 第1回ケアマネージャー試験に合格し、福山市要介護認定審査員を務めた。

平成13年
冒険スキーヤーの和田義正氏とボリビアのチャカルタヤ山(標高5400m)をスキー滑降、芦田川の浄化を訴えて「芦田川手作りいかだレース」を主催した。

平成15年
市長選投票率33%にショックを受け、「わしがやらねば誰がやる」の精神で自ら政治活動に取り組むことを決意した。その第一弾としてカヌーイスト野田知佑氏を招き、芦田川に関する講演会を開催した。

平成16年
4月:福山市議選史上最高の得票(7,805票)でトップ当選、順風満帆のスタート、5月:母・大田祥子がチョモランマに登頂後、8,500m地点で遭難死、8月:父・大田浩右が福山市長選に立候補するも落選、議会内において一転して逆風にさらされる。

平成17年 初の代表質問、自治労のヤミ専従問題を追及した。

平成18年
わずか3人の最少会派「誠友会」を結成し、是々非々を貫く会派として頑張る。毎議会質問・討論を行い、議員としての力量を高めることができた。

平成19年
高金利の市債の繰り上げ償還に積極的に取り組むよう求めていたところ、タイミング良く国の繰り上げ償還の規制緩和が実施され、将来的に約50億円の利子節減が実現した。

平成20年
2期目の選挙において第2位当選(6,818票)、広島大学大学院・社会科学研究科マネジメント専攻に入学し、地域政策ゼミナールにて地方自治について学ぶ。昼は議会、夜は大学院という2足のわらじを履き、大変貴重な2年間を過ごす。

平成22年
広島大学大学院を修了、修士論文「芦田川河口堰に関する政策研究」により水道局から一目置かれる存在となる。「タクロバン福山交流支援センター」により姉妹都市タクロバン市からの訪問団を受け入れ、大きなニュースとなった。

平成23年
「寄らば大樹の影」では駄目と考え無所属1人会派となった。15ヶ月間の1人会派は大変良い経験となった。また、23年度は政務調査費を全額返上し、税金156万円を節減し、鞆の旧遊郭街「有磯」の古民家を「鞆ノ津ギャラリーありそ楼」としてリニューアルした。
東日本大震災の発災後ただちに復興支援に取り組み、陸前高田市に中学生の学用品を届ける。南海支隊戦友遺族会主催の「ニューギニア慰霊の旅」に参加し、福山41連隊の慰霊を行った。

平成24年
「最低でもメダル」という目標を掲げ、3期目は3位当選(6,042票)、1人会派から最大会派「水曜会」に入会、民生福祉委員会・委員長に就任し、福祉年金の廃止に伴う成年後見人育成等に取り組んだ。この年より本会議に一問一答方式が取り入れられ、以後毎議会一般質問を行うようになった。

平成25年
富士山頂上よりスキー滑降、東日本大震災が風化しないよう陸前高田市の市長を招いて講演会を開催、第1回鞆の浦駅伝開催を実現、超大型台風に襲われた姉妹都市・タクロバン市の支援活動を行った。

平成26年
株式会社「福山健康舎」の代表取締役に就任、歩兵第41連隊の足跡を訪ねて「永遠の四一」を上梓、備後護国神社護持会を立ち上げ、福山市遺族会と共催で「みたま祭」を開催した。

平成27年
広島県市町議会議員政策研究会「広島クラブ」の会長に就任、ふくやまワイン特区により山野町の「やまの宿・西元」にて小規模醸造をスタート、広島の金本ファミリーとレイテ島慰霊の旅を催行、福山リトルシニア大田祥子旗野球大会が10回目を迎えた。

平成28年
ふくやまマラソンの「鞆の浦コース」実現、「歩兵第四十一連隊跡」記念碑をJA福山から緑町公園へ移設、4期目の選挙は投票率の低下にもかかわらず前回を上回る6,256票を獲得して第2位当選、都市整備特別委員会・委員長に就任した。

平成29年
備後ワイン・リキュール特区を活用して「山野峡大田ワイナリー」を設立、山野峡ワインの醸造により6次産業に取り組み、地方創生の政策実験をスタート。

平成30年
最大会派・水曜会の副会長に就任、建設水道委員会・委員長に就任、議会内の要職を経験、メキシコ・オリンピックチームの事前合宿受け入れに尽力、商工会議所青年部(YEG)研修委員会・委員長に就任、グリーンラインの自動二輪交通規制解除に貢献した。

平成31年/令和元年
漫画版・奇跡の将軍「樋口季一郎」を作成し、樋口将軍の孫・樋口隆一氏の講演会を開催、福山山岳会の会長として創立100周年記念行事を開催、新総合体育館「エフピコアリーナふくやま」のスポーツクライミング壁建設や、かわまち広場(特にスケボーパーク)整備に尽力した。

令和2年
経済リポートコラム「祐介の目」が連載100回目を迎え、100回記念集を作成した。5期目の選挙はコロナ禍で大苦戦!前回より2,200票も減らして3,970票で8位当選。5月の臨時議会にて第68代副議長に選任され、議会だより編集委員長にも就任。コロナ対策補正予算の成立に全力投球する(6回も予算特別委員会の委員長を務める)

令和3年
副議長を退任し、民生福祉委員会の委員長に就任してコロナワクチン接種に奔走する。コロナ対策として飲酒自粛が浸透してワイン造りは苦境に追い込まれたが、議会活動とワイン造りの二刀流で頑張った。

令和4年
5月に福山市監査委員に就任、1年間福山市の財政執行状況全般をチェックする。最大会派・水曜会の会長に就任、同時に議会運営委員会の委員長、議会報告運営委員会の委員長に就任。振り返れば議会運営の中軸となった5期目の4年間であった。

令和5年
5月に監査委員を退任、様々な角度から行財政をチェックし、監査委員としての職務を全うした。G7広島サミットに山野峡ワイン「富士の夢」「北天の雫」が提供され、山野峡大田ワイナリーは一躍注目を浴びる。8月、旧福山市体育館の解体の再考を求める請願の紹介議員となる。時期的に手遅れの請願であったが再度議論を求めた行動があだとなり、水曜会の会長辞任、議会運営委員会の委員長を辞任した。いろいろあったが、全力投球の4年間であったと自負している。

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