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大田祥子遺稿集
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アイランドピークへの道
高度順化も順調に出来、平田隊長以下5人全員で、平成13年5月6日午前10時頃、朝食兼昼食を済ませ、個人装備を持って約2時間半かけてAC(アタックキャンプ・標高5700m)に登りテントを張った。平田、佐々木両氏より豊田さんと私の為に、アイゼン、ストックの使い方の特訓があった。
5月7日午前1時30分起床、手早く身の回りを片付けて、予定通り切り餅3つずつの雑煮を食べた。早朝にもかかわらず全員食欲旺盛で、ステロイドでドーピングも済ませ、3時頃にはサーダーが到着しさえすれば何時でも出発出来る様、万全の体制で待機していた。出発前にトイレを済ませておこうと、狭いテントの出入り口を這い出ていると、右上腕に突然ギックと疼痛が走り、痛みの為に右手を全く動かすことが出来なくなった。以前にも2〜3度不自然な体形を取った時、右上腕痛が来たことがあるがそれと全く同じだ。下着の上げ下げが出来ないぐらい痛みが強く、とにかく右腕を動かすことが全く出来ない。じっとしていても痛い。アタックに備えて万全の準備が整ったこの機に及んで右手が動かなくなるなど計算に入れていなかった。私に氷壁登攀技術がないのに、アイランドピークに登ろう等と言う無謀な行為を神様が諌められたのであろう。平田隊長に「右手を捻ったようで、急に痛くなって、右手が使えないので、残念ですが登頂は無理とおもいます。」と伝えると、平田隊長もびっくりした様子で「なんと言うことかいなー」と言われた。とにかくじっとしていても右腕が痛くて、どういう角度にすれば痛みが和らぐか分からない。声を出さずにいることが精一杯であった。
サーダーもベースキャンプから登ってきて、皆希望に胸を膨らませて頂上目指して出発した。次第に寒く成って来たので、シュラーフを出して寝ようと思い、右手を動かさぬよう、のろのろと横になるまでに約1時間を要した。ゆっくりゆっくり痛み止めを出して飲んだり、座ったり、横になったりしているうちに、9時頃一寸うとうとして目がさめたら、右腕の痛みが大方取れていた。色々痛み止めを飲んだせいかも知れない。10時頃シェルパのタマルさんが下りてきた。4人全員登頂成功のゆえであった。12時頃平田隊長先頭に皆ACに下りてきた。佐々木、鈴木両氏は大分疲れている様子であった。予備日が2日あるので、運良ければ、明日登頂できるかも知れないと言う淡い期待を持っていたがサーダーの「everythinng finisched」の一言で私の自分勝手な淡い期待は泡となった。痛みも独り、涙も独り。アイランドピーク登頂の夢は消えた。
翌朝(5月8日)午前5時有明の月を背に、独りでBCよりAC直下の雪渓をトラバースする所迄歩いた。登り1時間15分、下り45分であった。午前7時モーニンングテイを飲んで、おかゆとチャパテイの朝食後、紺碧の空の元、右にローッエの純白の駕がたる岩峰を、左にアマダブラムの雪峰を眺めながらBCをあとにした。
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キリマンジャロ登頂
2000年12月23日正午に関西国際空港を出て、女性7人、男性12人、総勢19人、平均年齢50歳の一行がシンガポール、ドバイで乗り換え、滞空時間約20時間でケニヤの首都ナイロビに着いたのは12月24日午後2時頃であった。専用車で空港よりアンボセリ国立公園内のロッジに約4時間かけて到着。翌25日は大草原をゆっくり歩く象の群れや水牛、走るダチョウ、獲物をくわえて巣穴に帰るハイエナ、湖に群れるフラミンゴ、色々の水鳥に歓声を上げ、タータンチエックの布を纏ったマサイ族の踊りにカメラを向け、アメリカンスタイルのクリスマスのご馳走をたらふく食べたり飲んだりし、世界は広いことを実感した。26日はタンザニアのアルーシャ国立公園内のロッジに移動し、麒麟やかばや猿の群れにお目に掛かった。
12月27日早朝ロッジを出て、専用車で凸凹道をキリマンジャロ北面に回り込み、登山口のナレモル村(標高2230m)に正午頃到着。登山届を出して、ポーター、ガイドと合流。午後2時いよいよ登山開始。総勢50人のキャラバンとなった。午後4時第一キャンプ地(標高2650m)に到着。このルートはメインルートのマラングルートに比べて登山者が少なく、行き交う人も殆ど無い。下痢や腹痛などで体調を壊す人も出たが、美味しいカレーライスで翌28日は全員揃って緩やかな草原を第一洞穴、第二洞穴を経て、砂礫帯を第二キャンプの第三洞穴(標高3900m)に午後2時40分に到着した。高所順応の為、ここで2泊した。高所順応日の29日は高度を400−500m上げ、弁当を食べて帰った。食事は日本人向きにピラフ、五目寿司、炊き合わせ、豆腐の味噌汁等で、朝は食パン、目玉焼き、トマト、きゅうり、コーヒー等であった。デザートにフルーツが毎食ついた。30日は第三キャンプのスクールハット(標高4600m)に正午に着き、夕方5時にカレーウドンの早い夕食を済ますと、午後11時半迄仮眠した。11時半全員起きて、荷物の整理をし味噌汁とビスケットの軽食を済ませ、万全の防寒対策をして、31日午前0時30分、ヘッドランプを着け頂上アタックを開始した。
ヘッドランプの明かりで砂地のジグザグ道をひたすら登り、満天の星を仰ぎながら行くと、次第に左側の空が茜に燃えて来た。太陽が出る少し前の午前6時ギルマンズポイント(標高5685m)に着いた。出発より5時間半の行程であった。ここでご来光を拝んだり休憩した。一人ずつ最後尾より脱落していって残った12人が最高峰のウフルピーク(標高5895m)を目指して出発した。私は呼吸困難もなく、しんどいようなことは無かった。
ギルマンズポイントからの道は所々に積雪もあり、凍結していて危険個所もあった。行く手に大氷河が聳え、氷河から一抱えもあるかと思われるような氷柱が下がっていた。ギルマンズポイントに午前7時までに到着出来なかったらウフルピークには行けないと言う約束になっていたので、ウフルピーク迄行った人は男性5人、女性7人、計12人であった。女性は全員最高峰に到達した。標高5895mのウフルピークに午前7時55分に到着した。互いに健闘をたたえあって喜び、標識とタンザニアの国旗の前で記念撮影をした。約30分程頂上にいて下山開始。暗闇で登った時には分からなかったが、砂すべりのような砂地を、新雪を下る時の様に踵でどんどん下り、午前11時マラングルートのギボハットに着いた。ここには小屋があり、登山者で賑わっていた。ここでスパゲッチイーの昼食をとり、服を着替え、正午に出て、砂礫や草原の中をひたすら下り、午後2時10分ホロンボハットのテント場に着いた。2時頃より雨が降り出したが夕方には止んだ。行動時間14時間のハードな一日であった。標高差は登り1295m、下り2125m、温度差約25度であった。
ホロンボハットには食堂や宿泊用のロッジがあり、夕食は暫く禁酒していた日本酒で乾杯した。かしわのから揚げ、ポテトサラダ、海草の酢の物、隠元のソテー等登頂祝いのご馳走が並んだが、食欲の無い人も多かった。真夜中に大晦日の祝い、新年の歌や踊りがありおお賑わいであった。
1月1日は5時起床、6時朝食、7時出発、キリマンジャロを背に別れを惜しんで写真を撮り、草原をひたすら下り、途中のマンダラハットで昼食を摂った。ここではビールやコーラを売っており何人かは味見した。やがて樹林帯に入り、カメレオンや猿などに会いながら、午後2時マラングの公園事務所まで下山し登頂証明書を貰い登山終了した。2000年12月31日?10の登頂証明書であった。世話になったガイドやポーターと別れを告げ、車でアルーシャのホテルに着き汗を流した。
1月2日専用車で陸路タンザニアからナマンガ国境を越えてケニヤに入り、ナイロビの焼肉レストランでシマウマや水牛の肉を堪能した。夕方6時15分の飛行機でドバイ、シンガポールを経て、1月4日午前7時関西空港に到着し13日間の楽しかった山旅は終わった。
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ロブチエ・イースト(6000m)、アイランド・ピーク(6189m)登頂
日本山岳会広島支部の4人は平田恒雄隊長のもと、ネパールのロブチエ・イースト及びアイランド・ピーク登山のため、2002年4月21日関西国際空港よりロイヤル・ネパール航空でネパールの首都カトマンズに着いた。4月23日よりトレッキング開始。ルクラで現地スタッフと合流し、サーダー1人、ハイポーター2人、コック1人、キッチンボーイ4人、ヤク6頭で24日間の山旅が始まった。ドウドコシに沿ってエベレスト街道を、次第に高度を上げて行き、11日目の5月3日いよいよロブチエ・イースト登頂の朝、午前2時起床、餅入り雑炊の朝食を食べて、午前3時15分アイゼンを着けて氷雪の中をハイキャンプ(5200m)を出発した。薄明るくなった頃、雪原に着き、ここでハーネスを着け、いよいよ氷の壁に挑戦開始。前日ハイポーターがフィックス・ロープを張ってくれていたので、左手にユマール、右手にアイスバイルを持ち、カチカチの氷壁にアイゼンを打ちつけてやっとの思いで頂上近くまで登る。5―6歩登るとゼイゼイと息が荒くなる。7ピッチ、約350mのフィックス・ロープを登り、8時30分頂上着。真っ白な雪原。始めての6000m峰登頂。360度の展望でエベレスト、ローツエ、プモリ等など8000m級の山が全部見える。約1時間頂上にいて、9時30分エイト環を使って下降開始。12時丁度にハイキャンプに降りた。約1時間休憩してさらにBCに午後2時30分到着した。
ロブチエ・BCよりアイランド・ピークBCに移動して、トレッキング開始16日目の5月8日午前3時15分アイランド・ピークのハイキャンプ(5700m)を出て登山開始。昨年テントから出る時、右肩を脱臼して登れなかったので、今年は特に慎重に行動する。氷壁をトラバースしたり、直登したりしながら、7ピッチ300mの氷壁を登り、6189mの頂上へ着いたのは午前9時であった。石を投げたら届くぐらいの所にローツエの氷壁が峨峨と聳えている。9時30分下降開始。12時30分ハイキャンプ到着。2時30分BC到着。ついに仲間や現地スタッフのお陰で6000m峰を2つ登ることが出来た。しんどかったのもすぐ忘れて帰り道には来年どの山に登るかで花が咲いた。
順調に登山出来たので、余った日を利用してターメのスンドル・ピーク(4900m)の岩山に登り、24日目の5月16日首都カトマンズに帰り5月19日正午に関西国際空港に帰った。テント泊22日、ロッジ泊2日の旅であった。
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開院30周年に当たって 大田祥子
昭和48年(1973年)1月8日福山市沖野上町の国立福山病院の前のビルで大田内科胃腸科医院を開業しました。福山市で最年少開業医の32歳でした。子供から大人まで誰でも、何でも診させて貰いました。子供が泣くと言っては深夜に電話がかかり、熱があると言っては往診を頼まれ、24時間休む間もない毎日でした。福山市では始めてのペースメーカー植え込みや人工弁置換術の患者さんを岡山大学に紹介し、元気になって帰って来られました。第1号の胃レントゲン、胃ファイバースコープの患者さんに早期胃癌が見つかり、手術後今でも元気に活躍しておられます。ファイバースコープは高価なため、医師会の貸し出しの器械を利用しました。手術、入院は主に国立福山病院にお願いしていました。3年目には1日外来患者数が200人を超える日が度々あり、多忙な毎日でした。当時は人不足で従業員にも大変苦労した記憶があります。
沖野上町に国立脳神経センターを作ると言って、大蔵省、厚生省や日本医師会に奔走していた浩右さんの計画が頓挫して、自分たちでセンターを作ろうと言うことになり、同じ町内の現在の土地を求め、昭和51年12月1日大田病院を開設しました。全くのゼロから始め、国立病院の放射線科、医事課、そして医師会の先生方や多くの方々のお陰で、今日の大田記念病院があることを心から感謝しています。
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第11回山岳辺境セミナー基調講演 講師 大田祥子
『気が付けば、8000m 』
本日は、昭和10年代のチャック(口のこと)の交換部品がないので、壊れたままのチャックで登場しました。よろしくお願いします。
私は福山の脳神経センター大田記念病院で、平日の朝は8時から夕方7時までフルタイムで働いております。実に多忙をきわめております。この病院は常勤医師25名、従業員350名の規模です。
皆さんには、私は山にフーラフラと出かけては時々患者の前に坐っているように見られているかもしれませんが、そんなことはありません。
私は福山に32年間住んでいますが、そのころ家庭と仕事の両立を図るには医者として開業するしかないと思いつき、1973年の32才のとき最年少の内科医院を開業しました。主人とは学生結婚をしまして3人の子供がおります。
主人は教員の子でカネがなく無給で大学院から岡山済生会病院へと進み、ようやく国立岡山病院で初の給料をもらいましたがわずかでした。従って医師会の入会金40万円の捻出が大変でした。半分だけ納めていたところ残金を払わないと除名すると言われまして大急ぎで工面に走ったりしました。そして1997年、48床の大田病院をつくり主人と開業いたしました。
開業するや連日枕元には電話ばかりで熟睡が出来ません。相手が電話に10円入れるだけで私たちが飛び出す。まさに自販機よりも安いなと話しておりました。私の仕事は経営・母親・妻・炊事婦・掃除婦などもうすべてです。
40才のとき、「今死ぬと私の人生は何だったのかと思うだろうな」孔子と違って40才で迷いました。遊ぶことを知りませんから、歩くことに向けました。福山山岳会の鈴木会長に電話しましたら「2、3回来てみなせえ」ということで一緒に山歩きを何回かやりました。
初めての3000m峰は剣岳で、雷鳥沢からノーマルルートを経て早月尾根を下りました。北鎌尾根下の廊下、滝谷、いずれも大したことない。皆さんと一緒の行動は難しいということで3、4年後ひとり歩きに変えました。2週間の夏休みを利用して日本海から朝日岳、後立山連峰、穂高岳へと8日間の縦走をしたり、静岡から南アルプスを1週間かけて北に向けて縦走したりしました。「南アルプススーパーマン」というあだ名がつきました。聖岳でお茶のとき、若い人から「お母さんより年上だ。信じられん」と言われたりしました。
ウィンタースポーツは走るだけです。43才のとき’85大阪女子マラソンに出場しました。240人中130位、3時間23分19秒でした。ひとりでフラーと行ったのは私だけ、他の選手は2、3人コーチがいたりして足がすくむ思いでした。共通1次試験の長男を送り出したあと大阪へ向かい、初日は検査を受けて帰りました。40代は4、5人だったでしょうか。翌日が本番です。試合の終えた次の日は足のマメを気にしながらもう仕事をしていました。50代からはスキーを始めています。
7年前の1995年のことです。百姓をしていますのでマウンテンバイクでぶっ飛ばしていましたら横から白い物が飛び出したんですね。思わず「ギャー」車にはねられたのです。
1カ月後右足が立たなくなった。主人の友人の脊椎外科で腰の手術をしてチタンで3、4、5椎をとめました。200万円かかりました。背中に「大金を入れている」と書いて歩こうかと思いました。1年でビスが1本、プレートが1枚折れました。折れていたのは最近レントゲンでわかりました。こうなったのはふたりだけだそうで、もうひとりは腰をペコペコ曲げる有名旅館の女将なんだそうです。
「チタンは焼いたとき残るんだろうか」と息子は狙っているようですが「焼きが入ったら金属は駄目よ」と言っています。11時間の手術のため途中ショックで血圧が下がりました。このため脳細胞が死にましたから今の私になりました。
最大関心事は「右足が動くかどうか」でした。リハビリはベッドサイドに立つことから。一歩一歩と歩いて、やがて午前4時に病院の救急入口からソロッと抜け出て琵琶湖あたりへ散歩に行き、午前6時にはベッドに戻って寝ていました。
2週間で退院、1ヵ月後には復帰しました。仕事のあることはいいことですね。誰かが待っていてくれることはすばらしい! 3ヵ月後、毎年秋に行く宮崎の大崩山に、今までと同じペースで登れました。
1997年、岳連のネパール・カラパタールトレッキングに欠員があると鈴木さんから電話がありまして行きました。自然のままの世界がある!こんな人生がある!と大変感動いたしました。
1998年テンシャン山脈、その後もゴーキョピークなどへ出かけました。2001年にはキリマンジャロへ登りました。初めてのカトマンズのとき、「つきあうのは5年先で」と平田さんに言われましたが、2001年、5年がたっていないのにアイランドピーク(6189m)に誘われました。
冬山をやっていなくて涸沢、剣でアイゼンをお遊び程度にやっただけ。本番出発前に大山元谷でユマールやアイゼンをにわか仕込みでやりました。
5800mのハイキャンプで明日に備えてアイゼンの練習をしていたら「明日どうするんか」と平田さんに言われたりしました。
当日午前3時半、スタートするためテントから出ようとしたら右手がキュンとなって腕がダラーとなってしまった。脱臼です。テンシャンでもこうなったことがあります。テントに残ってひとり寝たり坐ったりしてウトウトしていたら全然痛くなくなった。「ひょっとしたら登れるかも」という淡い希望はなくなり、このときは帰りました。
治し方を覚えなくてはと、家で2、3回はずれた際、自分自身で整復するコツを学びました。
2002年5月、もう一度平田さんから誘われたときはロブチェイースト(6000m)もアイランドピークも爽快に登頂できました。
その年6月、富士山雪上訓練の際、アドベンチャーガイズ社の近藤謙司さんからチョーオユー(8201m)の公募登山に参加しないかと声をかけられました。「体力、高所はOK、技術は要らない」と言われ「このとき以外はない!」と決意しました。
出かけた9月は毎日大風と雪でした。6400mのC1で3泊したのちそこを午前10時に出て7200mのC2に午後6時前に到着しました。大風が止まずそこで2泊、C3は狭いので直接ピークをアタックすることにしました。3時半先発隊として出発しました。背中で6キロの酸素ボンベがゴロゴロします。イエローバンドを前に、登るルートを決めるとき「右側はやばい」と思ったその右のルートをハイシェルパが選びました。右手にピッケルを持ったとたん右肩が「ギクッ」脱臼です。降りて学習どおりの整復をしたが治らない。しかも「右の靴が脱げる!」事態まで重なりました。靴はシェルパにピッケルを当ててもらってはけましたが、脱臼のままそこを登るのは大変でした。
近藤さんに「鍼灸師にはめてもらえ」と言われましたが、鍼灸の出来る隊員も大変な場面ですから2ピッチ(100m)をはずれたままで登りました。つまり2本の足と左手だけです。登ったら膝までモナカ状の雪の高原でした。その先が頂上でした。11時45分登頂。私たちがその秋の初登でした。
リュックのひもが右肩にめりこんで痛いどころではなかった。痛くなければ8000m峰のピークは楽しかっただろうと思います。
酸素マスクもリュックもすべて人手に頼らねばなりませんからそのままつけて行動しました。
16時、C2に着きハーネスをとってもらうとテントに転がり込みました。ようやく着いた鍼灸師に背中を踏んでもらって脱臼を治してもらったのが20時です。そのあと18時間ぶりの排尿をしました。
2003年夏にはランタン谷のナヤカンガ(5846m)に登ってきました。
私ひとりに40才までの男性12名がつくキャラバンでした。大事にしてもらい「女ひとりで来るものだ」と思いました。つまずきそうになると全員が飛んでくるので、こちらがびっくりしました。雨が降るのにガイドが起き出して「行く、行く」と言ってくれる。5000mからは雪で真っ白でした。
来年は腰のチタンが折れているし、右肩ははずれるのでその治療は「はずれないようにしなさい」ですから命をかけることはできません。
本日は口のチャックが壊れているため、内緒にしていたことまで話してしまいました。
(講演 11月8日、広島コンピューター専門学校にて)
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生かされる命
本日、病棟の全員の回診をしてみて、改めて死ぬ事の難しさを感じました。80歳を超えた女性は割合元気なのですが、男性は衰えが目立ちます。自分が今どういう状況にあるか、が分からないだけでなく、朝か昼かも分からず、家族の顔もわからず、経口摂取出来ない患者に生命維持のために胃ろうの増設をして、単に生命のみを長らえさすような行為がまともな医療の姿でしようか。
人皆、天命と言うものがあると思います。生きるだけが、生かされるだけが幸せでしょうか。出来るだけ長く生きるよりも、一日でも充実した日を過したいとおもいます。私が、程々に生きて、意識もなく見込みが無いようになったときは、あらゆる延命治療をしないで下さい。痛みの強い時には少々寿命は縮んでも痛みを取る処置をして下さい。最後まで自分の尊厳を保って死にたいとおもいます。
人生は、限りがあるからこそ良いのだとおもいます。何にでも程々、中庸と言うことがあります。老化を受け入れる事は辛いことですが、これは避けることの出来ない事実です。生きとし生ける者の宿命です。出来れば余り苦しまずに人生の最後を迎えたいものだと思います。どうか宜しくお願いいたします。
平成10年4月22日
大田 浩右 様
大田 泰正 様
大田 祐介 様
大田 慎三 様
大田 祥子
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富士山から鳳凰三山、甲斐駒ガ岳を歩く
平成10年7月17日から7月20日(海の日)、あさかぜで静岡に午前4時58分に到着、5時08分の本線上りで6時02分沼津着、6時05分の御殿場線で6時37分御殿場着、タクシーで富士山須走り口新五合目に7時10分頃到着。朝からの雨で小屋のきくやでカッパを着たり、山登りの準備をして7時30分須走り口より登り始める。雨とガスで真っ白のため何も見えない。本六合の小屋で5分程休ませて貰い、八合目の江戸屋に11時に着いた。気温がだんだん冷えて来て汗でビッショリになっているので寒い。ホットココア400円を飲んで頂上を目指して相変わらずのガスと雨の中を出発した。11時30分過ぎ頂上小屋に着く。とに角寒いので味噌ラーメンを食べる。1杯1000円であった。山の上にしては案外安いなあと思った。30分程休んで下山道を下る。八合目で河口湖口の方に下る。長い長い下山道でガスの中会う人もなく六合目まで下りると登山客や馬を連れた4−5人に会った。この辺りから次々と人が登ってきた。五合目まで下りると道を左に取って富士スバルラインの駐車場に向けて約30分程歩き3時15分前ぐらいに駐車場に着く。河口湖行きのバスは4時20分までない。7月19日からは3時20分のバスがある。タクシーに電話したら片道40分掛かる上、高速料金、お迎え料金、タクシー代を全部合わせて13800円に成るとの事で、バスと時間的には余り変わらないようなので断った。
地下室で着替えをして4時5分前ぐらいにバス停の方へ行くと、タクシーが1台止まっていた。声を掛けると「さっき電話された人ですか。」と言った。私が「時間的に余り有利でないので、バスにしようと思う。」と言うと「半分ではどうですか」といった。4時37分の甲府行きのバスに間に合うなら乗っても良い。」と言うと6000円にするということで、タクシーで河口湖駅に4時27分到着。5時55分甲府駅着。ホテル案内が閉まっていたので、駅前のビジネスホテル内藤に投宿。ルームチャージ6200円であった。むらさきと言う居酒屋で鯵のたたきなどの夕食を食べてから、明日の為にむすびを6つして貰った。午前5時に夜叉陣、広河原行きの臨時バスが出るのを確認して休んだ。38000歩歩いていた。
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エベレスト・トレッキング
1997年4月20日、広島県山岳連盟主催のエベレスト・トレッキングに医療担当として参加した。ネパールの首都カトマンズ(海抜1380m)から出発して、カラパタール(5545m)に登り、憧れのMt、エベレストを間近に仰ぎ見ようと言う旅である。海抜2800mのルクラまではロシヤ製のヘリコプターで飛んだ。此処で現地のスタッフのサーダー、コック、シェルパなどと合流し、テントによるトレッキングが始まった。平均年齢58歳の仲間11人と現地人10人余り、白馬1頭、ヤク2頭の一行である。シェルパの数は日に依って変わった。荷物、テント、食料など全部持って貰っての大名旅行である。こんな山登りは国内でもしたことがない。高所順応の為、途中のナムチェ(3440m)で3泊、タンボジェ(3850m)で2泊、ヂンボジェ(4530m)でも2泊と滞在しながら身体を慣らしていく。標高5000mの大気中の酸素は平地に約1/2になるので徐々に慣らしていくことが大切だ。4000mから5000mのトレッキングでも高山病で死亡した例は沢山あり、3500mを越えると誰でも高山病になる危険性がある。朝晩の気温差が烈しく、昼間は30度を超える日も夜になると零下となって雪が降った。夕方3時頃から急に天気が崩れガスが立ち込め雨や雪になる日が多かった。
トレッキングを始めて12日目の5月4日いよいよカラ・パタール登頂の日である。4時起床、-3度C、満天の星、快晴、積雪約5cm、ヘッドランプを付けて5時に4930mのロブチェを出発。前方の氷雪を纏った山並みに見とれながら氷河の上を黙々と歩く。氷河には随分アップ・ダウンがある。10時10分、全員が5545mの頂上を極めた。雲一つ無い紺碧の空、天空を突き刺すように8848mのエベレストが聳え、その横にヌプッエが居座っている。遥か下方にはエベレストのベース・キャンプが見え、色とりどりのテントの群れが見えた。エベレスト頂上付近では、盛んに雪煙が舞い上がり、所々金色の帯の様に見える所もあり、何もかにも神秘的に見えた。その晩は皆疲れて良く寝た。身体の不調を訴える人もあったが、翌日より高度を下げていくに従って全員元気になった。往路で5日も要した道を1日で一気に下り5月8日に17泊18日のトレッキングの最後の夜、現地のスタッフと共にチャン(日本のどぶろく)を呑みながら夜が更けるまでシェルパ・ダンスを踊った。太陽と共に生活した20日間の旅は終わった。また、必ずネパールへ来たい。
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ビンソン・マシフ(南極大陸最高峰、4897m)登頂
南極半島付け根のエルズワースランド、センチネル山群の盟主ビンソン・マシフは標高4897m、南極大陸の最高峰である。南極点から西に焼く1200kmの氷床上に、氷食によるドーム状の山容を現している。ウエツデル海湾に近く、湿った雪が吹き付ける不安定な気象条件の地であり、1958年1月にアメリカ海軍機に発見されるまで未知の領域であった。1966年アメリカ隊が初登頂し、1983年三浦雄一郎らが第3登し、三浦は4800m付近から標高差2300mをスキー滑降した。84年には民間のアドベンチャー・ネットワーク・インターナショナル社(ANI) が設立され、ビンソン・マシフ登山のコーヂネイトを始めた。
ANIのガイドシステムで2004年1月1日に成田を出て、21日間の予定で日本からはアドベンチャーガイズの近藤さんがツアーリーダーになり、男性3人、女性3人の合計7人が参加した。
滞空時間30時間余で南米の最南端プンタアレナスに1月3日到着。南極には整備された滑走路や管制塔があるわけでなく、有視界飛行のためフライトは気象条件に大きく左右されるので、天気待ちを1月6日までして、1月7日やっとソ連の軍用機で約6時間かけて登山基地であるパトリオットヒルズに着いた。
南極に降り立つと、寒さ、何処までも続く青氷(ブルーアイス)に驚嘆する。ブルーアイスは空との境界が分らないほどの鮮やかな青である。気温はマイナス30度ぐらいまでさがり、風が強いので、体感温度はかなり下がる。南極は人類共通の遺産であり、汚さぬようにと言う「南極条約」があるので、し尿、便、その他の塵を全部持って帰ることになっている。尿と便は別々にしなければならぬ。ここでの食事はアメリカ式で、バター、チーズ、サラミソーセージ、牛肉、チョコレート、ナッツなどが主であった。
翌1月8日双発機ツイン・オッターで約1時間強かけてビンソン・マシフのベースキャンプに飛んだ。白夜で24時間明るいので、体内時計が狂ってしまい、わけが分からなくなってしまう。パトレオットヒルズよりANIのガイドのアンディがサポートしてくれた。彼は
36歳でシアトルに住む好青年であった。細身の体に似合わず、力持ちで良く気のつく独身男性であった。
1月9日、C1までの荷揚げのため、11時ごろBCを出発して氷河上をクレバス対策のためアンザイレンしてC1に向かった。上部で使う個人装備と食料などの共同装備をソリとザックに分けて緩斜面をアンヂイと男性3人は歩き、近藤さんと女性3人はスキーで登った。約5時間でC1に着き、荷物をデポしてスキーでBCに帰った。新雪は10センチぐらいで、パウダースノーで快適なすべりであった。
1月10日、BCからC1へ移動。この日は自己装備のみであったが、やはり半分はソリに載せ、アンザイレンして登った。
1月11日、昨日と同じような緩斜面を歩き続けて、C2に移動。テント設営する。ここではテントの設営、撤収、自己装備、共同装備を全部持たねばならぬので、久々に30kg以上の荷物を持った。
1月12日、C2滞在。アンヂイ、近藤、仲間男性2人の4人がC3へ食料とテント1張りを荷揚げした。私達4人はシュラーフを干したり、昼寝をしたりして休養した。
1月13日、45度―50度の急斜面を最終キャンプまで登った。ソリはC2に置き、ザックのみで、オーバーシューズにアイゼンを付けピッケルを持って、3000mから4000mまでいっきに高度を上げた。C3はさすがに寒かった。夕食は日本から持ってきたカレーウドンを食べた。テントの設営で体が冷えた。
1月14日、いよいよサミットの日。C3を午前11時に出て、アンディが先頭で、花崎、今井、私の順でアンザイレンして登った。今井さんが靴擦れのため、1歩歩くと10歩休むと言うようなピッチで頂上に着いたのは午後8時10分であった。9時間を要していた。30分遅れで近藤隊が着いたので、約40分頂上にいて下った。頂上の気温はマイナス24度であった。C3から約5キロの硬雪と氷のスロープで急・緩斜面の繰り返しであった。南極大陸最高峰ビンソン・マシフの頂上は360度の展望で、4500mを超す高峰に取り囲まれていた。C3についたのは午前0時34分であった。この時の気温がマイナス32度であった。体の芯から寒かった。C3に到着してからお湯を飲んだ時右手のインナー手袋の指先がお湯に少し浸かったが、暫くそのままにしていた。気が付いた時、手袋の先が凍っていた。慌てて手袋を取り替えたが、この時右第3,4指に凍傷した。その夜は手足が冷たくて寝れなかった。シュラーフの息が当たる部分が凍って、寝返りを打つと凍った部分から雪が降った。吐く息がテントの中で全部粉雪になった。行動中に着ていたパーカーの内面は凍り付いて真っ白であった。置くと胸像のように立った。ホカロンを足や背中に充てても余り温かくなかった。
1月15日、C3から自己装備、余った食料などの共同装備をリュックに詰め込んで急斜面をヨタヨタしながらC2まで降り、ここからソリも使って、午後6時30分にBCに降りた。先着の2パーティがツインオッターでパトリオットヒルズに帰った。日本隊は翌日の飛行機に決まった。その夜は祝いのぶどう酒とビーフステーキでお祝いした。ピッチは遅かったが、全員登頂した。
1月16日、BCからパトリオットヒルズに飛び、ブリザードのため飛行機が飛べず、1月20日までプンタアレナスからの迎えの飛行機を待った。来る日も来る日も風が吹き、何時帰れるのか見当も立たない状態であった。一面の氷の世界ではする事も限られ、アメリカ流の高脂肪食を食べてはテントで寝る日を繰り返した。20日にやっとプンタアレナスに帰り、久しぶりに風呂に入って垢を落とし、1月23日機上の人となり、ロサンゼルス経由で1月25日成田空港に着いた。予定より4日間の遅れであった。もう2度とこのような過酷な登山はしないだろうと思った。
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英彦山登山
6月6日、国民宿舎「ひこさん」に泊まる。221号室、夕食は、鯉のあらい、山菜の炊き合わせ、鯉こく、茶碗蒸、酢の物、冷やっこ、高菜の漬物、かしわのから揚げ、飯、であった。ビール、冷酒を飲んだ。冷酒はサラッとして余りコクがなかった。3人でころんで話しをしていたら、5分と経たぬ内に、鈴木さんがスースーと寝息を立てて寝始めたので、もう一度風呂に入ってから寝た。3人共良く寝た。一度もトイレに起きなかった。
6月7日、7時30分、朝食をたべる。飯、味噌汁、生卵、海苔、辛子明太子、梅干し、漬物、ヤクルトであった。支払は3人で23800円であった。弁当におにぎりをしてもらった。8時5分程前に昨夜予約しておいたタクシーが来た。女の運転手であった。天狗ラインを通って、野峠まで3400円であった。
野峠から、樹林帯を木苺を摘みながら、小さなアップダウンを繰り返して登っていき、10時30分頃中岳についた。歩き始めて丁度2時間経っていた。ここで休憩した。くぼて山と犬ガ岳の分岐点になっていた。更に30分程アップダウンを繰り返して犬ガ岳の頂上で昼ご飯を食べた。鮭入り昆布巻き、フグの味醂干し、きゅうり、弁当のおにぎり、ピーナツ、鈴木さん持参のビールで乾杯、最後に紅茶にブランデーを入れて飲んだ。ピークを超えると岩場の下りで、途中に30メートル程の鎖場があった。伐採した急な山道をどんどん降りて、川の辺に出、ここで水を飲み、靴を洗ったりして休憩した。更になだらかな道を暫く歩いて林道に出た。最後の木苺を食べながらくぼて山登山口の駐車場を過ぎて、資料館の下を通り、バス停に着いた。3時15分前であった。丁度宇島行きのバスが止まっていて、3時に出るとのこと。3人以外にはお客さんはなく、貸し切りであった。宇島駅まで40分掛かった。4時25分の「にちりん」で小倉まで出て、9分の乗り換えでひかりに乗り、広島で乗り換え、6時50分福山駅に着いた。楽しかった山行は終わった。
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再起
私の青春花盛りの54歳の4月、マウンテインバイクで交通事故に遭い、バイクを「伸し烏賊」にした。外傷は全然無く、手も足も動いたが、1ヶ月程して右臀部から大腿にかけての痛みのため歩けなくなった。7月、L3―L5までをチタンのプレート2枚とビス6本で固定した。11時間に渡る手術であった。リハビリにリハビリを積んで驚異的な速さで回復し、色々工夫して日常生活も自立し、術後1ヶ月で仕事に復帰した。
我が腰の回復祝う夏の宵独りの為の赤飯を炊く
朝晩歩いて、術後2ヶ月目の9月中旬より階段のトレーニングを開始した。3ヶ月目の10月中旬、思い切って山に行った。いつもどおりの単独行である。1680mの大くえ山。宮崎県の有名な岩峰である。以前と同じぐらいのピッチで岩も登れた。その晩、麓の民宿で岳友に葉書を書いた。
腰砕けて再び登ることあるまじと思ひし大くえの奇岩巨岩に我は今立つ
山岳ガイド
昨年の9月14日、人が少なくスリルのある秘境に行きたいと言う次男夫婦の申し込みで、夜行列車で剣沢に入った。翌日は往復4時間のハイピッチで剣岳に登り、剣御前岳を縦走した。3日目、朝5時に剣沢小屋を出発し、雪の殆ど無い雪渓を下り、真砂から二股を通り11時半に仙人池に着いた。池に映る紅葉の「逆さ剣」に歓声を上げビールで乾杯した。昼ご飯の後、約2時間掛けて、鎖や梯子の幾つも掛かっている急な下りを黙々と歩き、午後3時半やっと阿曾原小屋に着いた。露天風呂に入って長歩きの疲れをとった。4日目、黒部下の廊下を遡上する。黒部川に沿って絶壁の途中に30cmから50cmぐらいの幅の細い道が付けてある。一歩誤れば命が無い。後ろの2人は額に油汗をかいて付いて来る。清流の交わる十字峡などに歓声を上げながら歩いた。地図でのコースタイムは11時間である。何回も滝や渓流を越えて、黒四ダムの堰堤に着いたのは午後2時であった。9時間の行程であった。始めての2人、本当によく歩いたものだ。トロリーバスとJRを乗り継いでその日の内に福山に帰った。2人共満足のようで、山岳ガイドの役目を果たした。
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大阪国際女子マラソン(1985年1月28日 日曜日)
40歳からジョギングを始めた。早朝と仕事が済んで夕食の用意を始める迄の時間を、一刻を惜しんで走った。朝10km、夜10km。10kmを約50分で走っていたから、家を出て帰って来るまで1時間かかった。雨の日も風の日も走った。雨の日は傘をさして走った。芦田川の水含大橋から始めて、河口堰を渡り、水含大橋の対岸迄が約10kmある。折り返して帰って来れば、20kmだ。2時間あれば充分走れる距離だ。寸時を惜しんで走った。北風の中を、新雪の中を。若草の中を、すすきの穂波の中を。ひばりの囀りを聞き、渡り鳥の囀りを聞きながら。
初めてレースに出たのは、福山健康マラソンであった。竹が端の運動公園から田尻までの10kmに出場した。42歳の時であった。43秒であった。女子10kmで3位であった。その年の秋、マラソンの公認記録を取る為に、千葉県で行われた全国女子タートルマラソンに出場し、3時間27分で優勝した。私の初マラソンである。11月23日の小豆島マラソンで3時間26分で40歳代女子で3位であった。
当時、大阪国際女子マラソンのエントリータイムは3時間30分であった。20kmは1時間26分で、これは世羅靴供養マラソンでの記録である。この2つの公認記録と広島県陸連の推薦書を貰って、大阪国際にエントリーした。
1985年1月27日、長男泰正の共通一次試験の日であった。弁当を持たせて送り出した後、新幹線で大坂へ行き、東急ホテルで行われたマラソンの身体検査に行った。午後1時からであった。40歳以上は体重や血圧だけでなく、検血や心電図の検査もあった。年齢は上から4〜5番目であった。身体検査が済むとすぐ新幹線で福山に帰り、翌日、泰正の弁当をして、試験に送り出して、また新幹線で大坂の長居運動公園に行き、受付を済まして、12時からのスタートを待った。誰もが自分より良く走るように見えた。その上、ほとんどの人がコーチや友人または家族が付いて来ていた。一人で参加しているのは私ぐらいであった。
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